まゆたまガジェット開発逆引き辞典

電子工作やプログラミングのHowtoを逆引き形式で掲載しています。作りたいモノを決めて学んでいくスタイル。プログラマではないので、コードの汚さはお許しを。参照していないものに関しては、コピペ改変まったく問いません

期待してたけど・・・難しい話題でした

今日、慶応義塾大学で開催されたAR commonsシンポジウムに参加してきました。
AR commonsとは、AR空間を快適に利用するために様々な支援を行って行きましょうという団体のようです。
その決起集会というか、第1回目のシンポジウムが「AR世界におけるヴィジョン・知覚・感覚、公共圏としてのAR」というテーマで開催されました。

AR(もしくはAR的なもの)が世の中に普及する可能性は今後十分に考えられるのは自明のことだと思います。
ARの様々な可能性を探るとともに、そのときに起こるであろう問題を予想し、未然に防ぐ方法を考える。
要するにARの社会性みたいなことが語られるのかなと思っていてすごく楽しみだったんですが、正直なところ散漫な印象を受けました。
5つのセッションのうち、今回のメインテーマである(と思えたし強調してた気がする)「公共圏としてのAR」について語られたのはたったの15分。
ARのことを知らない方のために説明する時間を含めたとしても、もうちょっと語られるべきことだったし、これだけで2時間話すこともできちゃうくらい深い内容ですよね。
「いま、ここ」という場所の情報を簡単に得ることができる(もちろんこれはARのごくごく一部に過ぎません)などのARの便利な面、ポジティブな面はセカイカメラの紹介もあって割と語られていた気がしますが、肝心の問題点については「人そのものだったり特定の人物と関わりの深い場所にタグをつけて炎上したらどうするの?」ということが挙げられただけで、それについて各パネラーさんがどう考えているのかという点があまり明確ではありませんでした。

それに、セカイカメラは素敵ですが、そればかりが語られていたのもちょっとどうかと。
セカイカメラはARのひとつの表現手法にしか他ならず、もっと様々なARが存在するハズです。
各パネラーさんに「私はこのようにARを定義しています」ということをまず語って欲しかったな。
各人によって定義が違い過ぎて、話がかみ合ってないとこも多かったです。

と酷いことをいろいろと言ってますが、このようなARと社会について考える場ができることはとっても素敵だし必要なことだと思います。今回は初回と言うこともあって、ARそのものをまず説明しなければならず、このように内容が薄くなってしまったのかもしれません。今後に期待!

先日、「ARの普通じゃない勉強会」にておしゃべりさせて頂きましたが、私個人がARに惹かれる理由として、現実空間でもなければ仮想空間でもない空間がそこにあって、その空間には新しい身体があるのではないかと直感的に感じたことがあります。
その新しい身体についてはまだ言語化できていませんが、夏休みを利用して行う長期の人体実験(人の身体感覚をセンサにすべて置き換えて数日過ごすプロジェクトなど)を通して、きちんと言語化して行きたいと思います。

では、ここからは各セッションをまとめつつ、私見をちょっと書いていこうと思います。私見は→で。

公共圏としてのAR世界観

・ARは現実にファンタジーを付け加える
・ARは目の前の光景に対して情報を与える
・VRは幻想の中に現実を作る
・VRはなぜわざわざ仮想の中に現実を再現するのか
→これはAR勉強会のときにも私も言及しましたが、同じ考えです。「今ここにある現実」が何よりも強力ではある。しかし、その反面、その現実を忘れるためのVRやARのあり方も考えられると思う。

・ARは身体感覚を拡張してくれる。誰が、何のために使うか? 何か見えるようになり、見えなくなるモノは何か?
→身体感覚を拡張してくれるのかどうかは個人的にはまだ分からない。長期間人体実験しないといけないだろうと思う。そもそも身体感覚を(いい意味でも悪い意味でも)減衰させるものとして存在する可能性も考えられなくはない。現実世界に付加した「インフォメーション」は生々しい身体が感じるセンシティブな情報より解像度が高いと言えるのか?そもそも(今回示されている)タグ情報は身体感覚ではなく言語情報やそれをビジュアライズしただけのものではないのか?

・技術が進化していくと、街・服装・コミュニティも変わる。技術とサービスを一体で考え、社会全体から俯瞰して技術を見る視線を持つことが重要

映像によるプロジェクト・ショーケース、AR技術の紹介(気になったものをピックアップしました)

・IRIがポンピドゥー・センターで行っている、アーカイブに関連したARサービス。美術作品の前で来場者に感想を言ってもらい録音・データベース化、他の来場者がその作品の前に立つと来場者の感想や作品情報を聞くことができる
・3D Desktop。記憶を空間に結びつける。丘の上には学校の情報があって、湖の上には仕事の書類がある。人類の記憶をVRの街を歩くことで感じ、思い出す

・人にタグをつけることについての問題
→ARは現実空間とネットの空間が混じり合う「場」でもあるため、ネット上の問題(炎上とか)が今度は現実世界でも起こってくる。ネット上の炎上はよほど深刻なケースでない限りは回路を遮断してスルーすれば済むが、現実世界がそこに絡んでくることによって逃げられなくなる可能性はある。

・現実を活用することによって、本当の情報を使う事が出来るという「安心感」が得られるのではないか
→「本当の情報」とは何か?情報を解釈してタグを打つのは人なのでは?「データ」と「情報」は違う

・顔を下げてケータイの画面を見ず、顔を上げて現実世界と向き合おう、と言うライフスタイルや仕事のあり方
・ARは情報のビジュアライズを行う側面もあり、身振り手振りに近い。言語ではない情報のあり方

電脳化する世界を巡って(各パネラーが入れ替わり立ち替わりしゃべるので慌ただしい。ひとり二言三言で終わってしまい内容がかなり薄かったのが残念)

・ARが普及することで消費に繋がるような情報がリアルタイムに交わされて、その履歴がその場に残る
・タグが多いところはそれだけ活発な場なので、たくさんの情報が交わされる。そこからいかに有用な情報を拾い出していくか。その情報をどう生かしてその場・空間を新たに構成していくか
・歩いて汗をかかないとコミュニケーションできない。その場の情報から生々しい感覚を得たり記憶を思い出すなど、最終的に直感に働きかけるものが必要

・ARにクリエイターとして関わるとき、身体性を理解して作らなければいけないのではないか
→ものすごく同意します。ARは現実世界とネットも含めた仮想世界の狭間に位置するもので、現実世界とも仮想世界とも違う身体性が生まれる可能性があるような気がしています。個人的には。

セカイカメラにおいて、頭で考えて体でタグを飛ばす感覚にはギャップがあり、その間を埋めていく必要がある
→タグを飛ばす感覚というものが浸透して初めてギャップが無くなるのは自明ですね。やはり身体で理解するために長期間使用して人体実験を・・・

・現実を支えるモノは触れることができて、聞こえて、臭うモノ。しかし現実に安定感を与えているのは見えないもの
・市民生活で何かにタグを付与することで、社会環境を円滑化して、結果コミュニティを見守ることができるのでは

・特殊だったり特徴的なモノや人、コトだけにタグをつけるという考え方
→タグを背負うということの意味とは?

・ARを社会の文脈から分析した上で、制度整備やガイドラインが必要なのではないか



今回のシンポジウムで語られたARは、現実の場所等の情報の解像度を上げてビジュアライズするという定義な感じ。
現実と(ネットの社会も含む)仮想世界が交じり合うという意味での広義のARではなかったような気がしました。
なので今回のシンポジウムは、ARそのものに関する可能性じゃなくて、都市におけるARの可能性と問題点っていうふうに考えたほうがいいかもしれないという感想を持ちました。

今回シンポジウムを聞いて、個人的にARの問題点をあげるとすると、
・人にタグをつけるということは、他者を攻撃することに繋がる
・ノイズをどう取るか。特殊な人・モノ・コトがタグを背負うことで解決するのか。また、タグを背負うことによる社会的責任が発生しないか
・ARが普及することで「現実感」という言葉の定義がさらにあいまいになる。しかし、あいまいになったらなったでそういう社会や身体性を作り出すのも片方でアリだとも思う

といったところでしょうか。
AR commonsの今後の発展に期待!